2011年『アーティスト』で、一躍国際的存在になったフランスの監督ミシェル・アザナヴィシウス。 彼はサイレントからトーキーへと映画史の転換期と、ハリウッドスターの浮き沈みを描く華やかな主題で、本場に殴り込みをかけ、5つのアカデミー賞Rをさらった。続く本作は、1948年に制作されたMGM映画フレッド・ジンネマン監督作を土台にした(邦題『山河遥かなり』)リメーク。ジンネマンの『The Search』と同じ題名を踏襲して、アザナヴィシウスが真っ向から挑む主題は“戦争”と“人間”である。
ふたりの監督にとって、しかし、この主題は避けては通れなかったのだと思う。フレッド・ジンネマンの両親は、オーストリア、ウィーン生まれのユダヤ系ドイツ人。父は医師であったが、息子のフレッドは音楽家を目指し、やがて映画への道を進み、1929年、ハリウッドに渡る。この選択が運命の岐路になり、息子は生き延びたが、両親はホロコーストで死んだ。フレッドが両親の死を知るのは、戦後であった。『山河遥かなり』の冒頭の場面、ベルリンの廃墟は実写で、迫力があったのを覚えている。10年後、ドイツを旅したが、廃墟はまだ存在し、石の都市戦争のいかに激しかったかを思い知らされた。日本も、特に大都市は見渡す限り焼け野原ではあったが、木と紙の街は復興も早く、広島のドーム以外は、戦禍は写真と記憶にのみに残された。
ユダヤ人が背負う長い歴史、更に何系に属するかで出生を判断する複雑さ。頭では分かったつもりでも、日本人は人種、民族、宗教問題に疎く、軽々しく論ずるのは避けたいと思う。ミシェル・アザナヴィシウスの場合も、その名が示すように、パリ生まれのヨーロッパ系ユダヤ人、正確にはリトアニア系であろう。ヨーロッパから渡ったユダヤ人が、ハリウッドを支えた歴史。やがて、ナチスによるユダヤ人撲滅。20世紀の残酷な記憶を継承する三世代目の彼が、ハリウッドの主題から、チェンチェン紛争を取り上げていく過程は、全く矛盾していない歴史的必然、回帰なのである。ユダヤの人たちの特質のひとつは、頭脳明晰、性格は執拗なまでに忘れない。それが私のわずかな体験からも言えることだ。
チェチェン問題は専門家にお願いするとして、第二次世界大戦で、連合国側としてベルリン解放に参加するモンゴメリー・クリフトのGIスティーヴンと、チェチェン紛争に関わるベレニス・ベジョ扮するキャロルの立ち位置は、同じ構図になっている。スティーヴンはアウシュビッツ収容所から逃げて来たユダヤ人の少年を偶然、目に留めて、一切れのパンを与え、ひたすら英語を教え、一度はアメリカに呼び寄せようとまで決心する。欧州人権委員会に属するキャロルも、チェチェン人の孤児ハジと出会い、食べかけのパンを一切れ与える場面から始まる。次には、言葉を発せなくなってしまった少年の恐怖を取り除き、いろいろな言語を投げかけて、コミュニケーションを図っていく。2人の少年の背景には、ユダヤ人とチェチェン人の違いはあっても、彼らのおかれた被害者の基本的状況は変わっていない。こうした情景は、戦後すぐの日本でもよく見かけた。二つの作品の大きな違いは、スティーヴンとキャロルの状況、それを取り巻くより複雑な国際的状況だ。
うんざりする自分の家庭環境、職場での問題を抱えて、キャロルはストレスをためている。それがなんであるかは、はっきり分からないが、見ている方は、大方の察しは付く。それに比べて、戦争直後のアメリカ人スティーヴンは、おおらかで単純だ。70年近い時の流れは、政治的、経済的、感情的にも、事態をより複雑にしてしまった。ユダヤ人の息子を探すチェコ人の母に対して、チェチェンの少年ハジの両親はすでに殺され、赤ん坊の弟の世話も見切れず、チェチェン人の家の前に捨て子にして、逃げていく。この罪の意識もあって、彼は言葉を発せない。少年を探すのは姉であり、彼を取り巻くすべての関係も何重にもなって、すれ違い、巡り合わさっていく。アザナヴィシウスは、更に、ここに侵攻してくるロシア軍の若い兵士たちの心理と行動、軍隊がいかなる場であるか、人間をいかに変貌させる場であるかを描く。対するチェチェンの市民の視線。国際赤十字と欧州人権委員会の関係。ヨーロッパが、チェチェンに対して、なんの起動もしていない事実をキャロルの演説を通して見つめていく。彼の視線は複雑で、紛争、もしくはテロという名の終わりなき戦争について、世界が置かれている現状と本質を現在進行で描き、現在進行の中で断ち切ってしまう。一番鋭い視点だ。最早、自分には関係ないと、誰も言えないのだから。
重要な存在は少年ハジである。フレッド・ジンネマンの映画の中でも、チェコのユダヤ人の少年は、大きな存在を占めていた。1948年頃、多くの日本人にとって、アウシュビッツの問題はまだよく理解されていなかったと思う。映像として、厳しく、激しく心を衝いたのは、1962年にようやく公開されたアラン・レネのドキュメンタリー『夜と霧』を見てからであった。ジンネマンの映画には、収容所の描写は一切出てこない。もう平和な時代になったのに、救急車で輸送される子どもたちは、ガス室に入れられるのかと、逃げ出す場面を描いて、見る側に、その残酷さを想像させるだけだ。2作品とも、スープをスプーンで食べる習慣さえ忘れてしまった少年の姿を見せているのも、実際にあった話。手づかみで、盗み食いばかりしていた子どもたち、こうした状況に立たせられる子どもたちの姿は、いまも、世界に存在している。
人は戦争の恐ろしさを語る。けれども戦争が終わったあとの、怖さ、飢餓、悲しみ、苦しみについては、あまり語らない。それは戦争を体験しなかった人たちの、追体験だからだ。年齢がひとつ違っても、受け取りかた、記憶は違うが、彼らが受けた体験は生涯、消えることはない。この事だけは、何度でも執拗に言い続けたい。その子どもたちの中には、私もいた。時折、色のない瓦礫の風景がえんえんと胸の中を、今も通り過ぎる。子どもたちに、そんな思いをさせてはいけないなどと、感傷的な事を言っているのではない。人間はすぐ忘れてしまい、何度でも同じ愚かさを繰り返す。おそらく、ミシェル・アザナヴィシウスもそれを言いたいために、親と子、姉と弟、家族が離散し、めぐり会う物語、彼流のメロドラマに仕上げたかったのだろう。そうでもしなければ、記憶を喚起する方法は、もうないのだから。